出だしで躓く

出だし以外は躓かない

好き と 愛

「好き」の定義はかなり難しい。物に対しては「私に良い影響を与えてくれるから」で良いと思うが、人に対してはそうはいかない。与えてくれるから好き、では付き合えないし、好きというより搾取したいだけではないか。「好き」は「対価を支払える」という意味が強い。労力を割かないけど好き、というのは、結局そんなに好きではないことを示している。わざわざ買わないけどチョコレートが好き、と言われても納得できない。

  しかし、自分では何もしないけどあの人が好き、というのは結構あるパターンだ。人のセクシャリティは様々で、好きな人と共に生きることを重要視しないタイプもいるとは思う。あくまでも一般的なことをいえば、対価として何かを差し出せないのなら、それは好きではないと思っていいのかもしれない。

  正しい対価以上のものを差し出すことが愛なのだと聞いたことがある。とすれば、正式な対価すら支払えないという人とは恋愛できないだろう。

 

  好きなら違法ダウンロードじゃなくてちゃんと買え、と思った出来事から発展させていろいろ考えてみた。アーティストは人でありながら物やコンテンツに近い存在だから問題がこじれるのだろう。

  もう少しいえば、守ることと近いのかもしれない。海が好きといいながら海にゴミを捨てる人には違和感を覚えるように、「好きならそれを守って当然」という意識は知らぬ間に共有されている。一部の男性が「お前を守るから」と言いたがるのもここから来ているのだろうか。少なくとも、好きならば自らの手で壊すようなことがあってはならない。

  楽曲の違法ダウンロードは、アーティストの利益を奪うことで、前述した「壊す」ことにつながる。売上が伸びずに活動が出来なくなるアーティストは多い。その一端を担いながらも「好き」だと言い続けるのは矛盾している。

 

  嫌いなら対価を支払わなかったり壊すような行動をとってもいいわけではない。しかし、そういう行動は嫌っている人間がやるものだ。好き嫌いに関わらず対価は払うのが一番だが。

 

  日本の行き過ぎた「おもてなし文化」は、愛を求めすぎた結果であるように思う。愛に飢えた人間が多すぎる。そしてその原因は、需要や肯定や多様性に欠けた教育体制にあると思う。自分を愛せなくなった人々は誰かから愛を与えられなければ辛くて生きていけない。そうして行き着いた先が過剰なサービスか。大きな問題にたどり着いてしまったが、結局は一人ひとりが取り組む問題だ。私も早く自分を愛せるようになって楽に生きたいものだ。