好意と嫌悪
人が他者に嫌悪を感じるのは「老い」「貧困」「死」の三要素を連想させる時だと聞いたことがある。感覚でうすうす分かってはいても、こう断定されると理不尽さを覚える。老いている他者と関わっても自分が老いる訳ではないのに嫌悪を感じてしまう。これが本能というものなのだろうか。嫌悪を感じたから、自分は老いないようにしようと努力できるのだろうか。そのためのシステムか。それもありそうだ。
ところで、私は他者に(恋愛対象としての)好意を持たれると嫌悪を感じる。気持ち悪いからもう関わらないでおこう、と思う。これは先ほどの三要素とは別のものだろうと思っていたけど、よく考えれば「死」への嫌悪なのかもしれない。
他者に好意を示された時に感じる、深い部分に踏み込まれた、という嫌悪。それは不自由への嫌悪だと思う。じゃあ不自由だと何が困るのか。死に繋がることだ。鎖に繋がれれば死を意識せざるを得ないし、精神的な拘束でもそれが原因で生命活動を制限されることになれば、死に至ることは十分ありえる。
つまり、死が怖いからそのへんは仕方ない、と割り切るしかないということか。
逆に、誰に好意を向けられても「嬉しい」と言い切り、その後も今まで通りの付き合いを続けていく人(こちらの方が一般的であるらしい)は、一体どういう感覚を持っているのだろうか。
そもそも、深いところに踏み込まれたところで別に死にはしないのに私も用心深いものだ。前世ではストーカーに殺されたのかもしれない。