出だしで躓く

出だし以外は躓かない

他己紹介

  友達に他己紹介してもらったら完全に心が満たされた。授業で何回かやる機会があったらしく、急に頼んだのにかなり色々なことに言及していて驚いた。

  忘れたくないからここにも書いておく。自分で書いてしまうと自画自賛のようだけど仕方ない。仕方ない!

 ・ワードセンスが良い。コメントが斜めから来るからびっくりするし面白い。学科の勉強が生きている。

・ファッショセンスが良い。いつもオシャレな服を着ている

・コンサルとか向いてる

・いろいろな知識があるのが分かる

らしい。 他にも何かあった気がするけど忘れてしまった。忘れたくないのになんで忘れてしまうんだろう。忘れた方がいいことはなぜずっと覚えているのに。

 

  人を励ますように自分を励ませないのはなぜだろうね。誰かが自分を卑下すると「そんな風に思わなくていいよ!」と真剣に言えるのに、自分に対しては言えない。

  その友達は、人の長所に目を向けるようにしていると言っていた。私はわりと短所も見ているなと気づいた。それは、どうしても困った時に、いざとなったら陥れるためだ。弱点を知っておきたい、という心理から短所も鋭く見ている。世界は私にとって味方ではなかった。その名残だろう。そういうことをしなくなったら幸福度が上がりそうだ。

  しかし、別に無理してそういう思考をやめようとは思わない。サイコパシーが高い人間は必ずいるし、そういう人の餌食にならないとも限らない。弱点を把握しておくこと、そして良い人でいること。自分に出来るのはそれしかない。弱点を付いたり劣等感を刺激したりして遊びたがってしまうので、そこだけ抑えればいい。上手いことイジリに昇華させられたらまた違うのかな。

身の振り方は何歳になっても悩みそうだ。

やるべきこと、やりたいこと

  なぜ朝はダラダラしてしまうのだろう、と考えていたけど、普通に夜もダラダラしていた。していないのは大学にいる時だけだ。空きコマがあっても暇だと思ったことはない。ふたコマ続けて空いていても余裕だ。今の時期なら卒論かESを書いていればあっという間だし、昨年まではレポートか課題をやっていた。運良くそれらが無かったら入念に復習をしたり、それすらしなくていい日なら興味の赴くままに本を読んでいた。とにかく、時間があって困ることなど無かった。今では90分の空きを少ないと思うようになった。ちゃんとした文章を書くのはけっこう大変で、90分ではまず仕上がらないからだ。

  逆に、暇だと思うのは30 分から1時間の空き時間だ。勢いが出てきた頃に止めなければいけないから文章を書く作業はしたくない。かといって、ネットを見続けて暇を潰すのもなんだか嫌だ。

  そもそも、暇を潰したくない。空きができたからやりたいことをやる。そうやって生きていきたい。やりたいことをいつでも出来る人生。そういうのもいいな。

  

  占いによると、私は自由を求めるタイプらしい。あまり占いを信じる方ではないし、ファッション誌の占いコーナーの内容だって閉じた瞬間に忘れているくらいだ。しかし、なんとなくこれは信じている。自由に生きたいというのは普遍的な願望だとは思う。だが、それを抑圧するような社会だ。そんな社会で「占いでそう言っていたから」を理由に私は自分で自分にOKを出す。理想的な占いとの付き合い方ではないだろうか。

  人々が生きたいように生きるためのツールが増えてほしい。日本は人々を脅しすぎなのだ。

また飲んできました

  楽しい飲み会と楽しくない飲み会では何が違うんだろう。今回は後者。このメンバーでの二次会はもう行かなくていいなと思った。びっくりするほど楽しくなかった。何故だろう。

  一番は、興味が持てなかったことだろうか。知り合いである二人はそこそこ付き合いが長く、その結果「合わないな」と気づいている人たちだから本当に興味がない。この二人の喋りを聞けば聞くほどテンションが下がっていった。だって、もう何度も聞いている話ばかりだ。

  興味があるよく知らない人たちは、その人たち同士で話し込んで離れようとしなかったり、質問にまともに答えずボケて終わるタイプだったりした。質問する、ボケる、ツッコむ、笑う、終わり。何も発展しない。掘り下げられない。普通の会話ができない。

  楽しく会話をするにはまず相手に興味を持つこと。そして、ボールを返してくれる相手を選ぶこと。当たり前だけど、その大切さに改めて気づいた。

 

なぜ二次会へ行かずに帰るとそわそわしてしまうのだろうか。もっと楽しい世界が広がっているかもしれないのに、と期待してしまうから、というのがまず一つ。その場から離れるのが寂しいから、が二つ目。興味のある人ともっと話したいから、が三つ目。一次会で帰るのは大変スマートだとは思う。それがこんなにも難しい。二次会の初対面メンバーとは誰とも仲良くなれずに帰ってきた。それも地味にきつい。

  しかし、前回の飲み会のメンバーだったら迷わず二次会まで居座ってしまうんだろうな。このメンバーなら楽しいはずだから、と期待して。私が二次会によって捨てざるを得なかったものはいろいろある。明日の早起き。日中の集中力。その日はおそらく早寝も出来ない。また翌日に響く。

  まずいもので腹を満たすことが不快であるように、今日の楽しくない時間で明日の時間を食いつぶしたとなれば平静ではいられない。     次回もしこの飲み会に参加した時はなんの躊躇もなく一次会で帰れる。その収穫があったことだけはよかったと思える。

  とにかく今日は早く寝て、出来るだけ早く起きる。それが私にできる唯一のことだと思う。

気分屋

 中国人の女の子に「気分屋さんだね」と言われたことがある。英語の授業中だった。確か、あなたはどんな時に嬉しくなりますか?と聞かれて、晴れているときです、と答えた。もちろん英語で。その後に、日本語で「気分屋さんだね」と。意味がよく理解できず、3回ほど聞き直してしまった。「気分屋」という言葉を忘れていたせいだ。「気持ちがコロコロ変わる」と言われて、ようやく気づいた。たしかに私は気分屋さんだ。

 

  気分屋さんという表現はなんだか可愛いけど、私は今日そのせいで困っていた。ゼミの発表資料が一向に出来上がらず、約束していた後輩が急用で来れなくなり、お互いに気づかないというミスで先生との合流が遅れる……これらが2時間のうちに立て続けに起こった。あまりにも上手くいかないので、悲しみに浸りながらカルボナーラを食べた。いちおう書いておくが、私はカルボナーラが好きだ。

その後また発表資料づくりに取り掛からないといけなかったのだけど、なんだか体が重く、胸に水が染みているような気分だった。何をやる気もせず、早く帰って寝たかった。こんなんじゃ困るなぁ、と思った。なぜこんなに感情が体に直結しているのだろうか、これは私だけの仕様なのか、とグルグル考えていた。

  すると、友達と偶然会った。たまらず先ほどあったことを話したのだけど、それはなぜか「面白い話」としてアウトプットされたのだった。なんとなくそれでは気持ちが晴れない気がして、後で「ヘコんでいる」と言い直した。友達の反応を見て、やはりこういう切り口だと言葉に詰まるのだな、と思った。私もそれ以上は何も言わなかった。

  どこへ行くにもついて来て、何も聞かずとも自分のゼミの話をしてくれて、こういうところが可愛いな、と思った。その子と別れてからは、力技で項目の中身を埋め、祈るような気持ちで本を借りる手続きをした。

  そしていよいよゼミ発表。しどろもどろになるかと思っていたけど、意外と言いたいことは全て言えたので、わりと気分が良い。今日を振り返り、まさに気分屋さんな一日だったと思う。特に書いてはいないけど、資料をなかなか読み進められなくて焦ったり、約束の時間が近づくとウキウキしたり、そういった細かい変動もあった。

  どんな感情になっても機械じかけのように動ける人を尊敬している。そうはなれないだろうけど、気分屋さんは気分屋さんで楽しいと思えるようになったらいいな。

軽い気持ちで未来に期待する

  ESは昨日のうちに完成したんだけど、時間をギリギリまで使ってしまってちょっと驚いた。一つの項目に2時間もかかるとは。集中力のいる作業だったけど、箇条書きの文章をくっつけて解体して、文章が仕上がっていく光景は楽しくて癖になりそう。普段あんなに真面目に文章を書かないから。ここでそういうことをすればいいのかもしれないけど、さすがに2時間は費やせない。いや、ギリギリ出来るかも。今月中にはやってみよう。

 

  昨日のエントリを読み返すと、にじみ出るあまりの絶望に笑いそうになる。どんなに悪い結果になったとしても、やる前ほどには絶望しない。つまりそれは不安と呼ばれるもので、私の核であるともいえる。私は予期不安のプロだから。

  今日は一次選考で、いつものように不安を感じている。ずいぶんゆっくり就職活動をやっているものだから、筆記以外の選考を受けるのは今日が初めてだ。でもきっと、終わってしまえば今よりは晴れやかな気持ちなのだろう。こんなことをずっと繰り返してきたはずなのに、いまさら気づくなんて、なんと忙しい人生だったんだろう。今になって、やっとそういうことを考えられる余裕が出来たんだ。

  今は生き方を決める時期だ。これまでは迷いがあったものの、今では自信を持って望む生き方を語ることが出来る。それが間違っていてもいい、という覚悟ができたということだ。逃げずにここまで来られたことを誇りに思う。

 

  明日はレポート作成でまた集中力を発揮しなければいけない。先延ばしのツケだ。しかし、なんとなく不安は少ない。

生活は、楽しくやれると確信してからが面白い。

先延ばし

  なぜ人は重要なことを先延ばしにしてしまうのか。なぜ締め切り間近しかやる気を出せないのか。締め切りが近くなると「なんの躊躇もなく無理が出来る」というだけで「本領を発揮できる」という訳ではない。やるべきことをやっているとき、精神は安定する。先延ばし行動は不安を生むだけだ。なのになぜ、私は締め切りの前日になってもESが完成していないのだろうか。

  テストなどは十分に準備をしてから臨むタイプで、一夜漬けはほとんどしたことがなかった。中には準備しない科目もあったが、それは労力を割くまでもないと思ったからだ。結果はいらないと見切った態度だ。

  したがって、結果を出したいのに準備が出来ていない今の状況はかなり珍しくて、既に後悔している。思うに、課題に早く取りかかるには、諦めが必要だ。「この方法が間違っていても仕方ない」という諦めだ。「不安だから方法を調べて、方向性を定めてから取り掛かろう」と思っていると、一生それが終わることはない。

  

  今回の先延ばし行動について、理由はだいたい分かっている。期待を裏切るようなことをしたくないからだ。添削をしてもらって、それはそれは立派なESが書けたとしても、面接で同等の立派さを示せなかったら相手をがっかりさせてしまう。それが憂鬱だったのだ。では立派な受け答えが出来るように練習する?それはそれで「よく覚えたね」という印象しか与えられず、あまり有効ではない。

  別に期待を裏切ってもいい。分かっている。相手がどう思おうと私が気にすることではない。分かっている。理解と実践の間にはなぜこんなにも距離があるのか。なぜその距離は他人から見えないのか。なぜすぐ次のステップに進めると錯覚してしまうのか。

ゆでるという努力をすれば自動的にゆでたまごが出来ているというようなことは、人間社会においてまずない。努力はしているのに、どれだけの時間を費やしても一向に卵に火が通らない。「ゆでたまご」という枠に入れない。そんなことばかりだ。しかし、ゆでてるんだから自然とゆでたまごになれるでしょう、というプレッシャーは日々かけられる。そうじゃない。我々は卵ではなく人間なのだと忘れてしまったのか。

  努力に伴い自然と結果が出る、というのはかなり魅力的ではある。実際にそうなる場合もあるだろう。しかし、全てではないのだ。ある法則を全てに当てはめようとした時、歪みが生じる。それをいま目の当たりにしている人間だけがそれに気づく。例外を訴える。しかし、歪みが見えていない人間には伝わらない。バグか何かだから修正すればまた自動的に結果が出るようになると思っている。実は逆ではないのか。努力の分だけ結果が出る方が何らかのバグなのだ。

 

  私は長らくバグを見続けていたようだ。

表面だけでも

  毎日書くのが大事、と言われていたのに気づいたら三日くらい平気で空いてしまう。だって、そんなに毎日毎日書くことがない。続けていたらネタを見つけるような視点で世界を見られるようになるよ、らしい。分かっている。分かった瞬間に実践できるという便利な機能はない。

 

  ネタで思い出したけど、先日の飲み会でウーロン茶を盛大にこぼしてしまった時、とっさに「一生ネタにできるやん」と口走った。そういう思考をしていることに驚いたし、ちょっと安心した。本心を隠して笑っていれば本当に笑えるようになるんだな、と思った。

なんでも「フリ」をするのが大事だと聞いたことがある。「形から入る」と同じことかもしれない。その話を聞いたとき「私は一生、健全な人のフリをするんだな」と思った。ここでの「健全」は、自己受容が出来ていて自分一人で満足できていて他者を攻撃しない、という意味だ。そんな人は少ないだろうが、自然とそう育ってきた人もいると確信している。羨む気持ちが強かったけど、実際に思考パターンが変わると分かれば、少しは楽な気持ちで健全な人のフリが出来るだろう。