出だしで躓く

出だし以外は躓かない

先延ばし

  なぜ人は重要なことを先延ばしにしてしまうのか。なぜ締め切り間近しかやる気を出せないのか。締め切りが近くなると「なんの躊躇もなく無理が出来る」というだけで「本領を発揮できる」という訳ではない。やるべきことをやっているとき、精神は安定する。先延ばし行動は不安を生むだけだ。なのになぜ、私は締め切りの前日になってもESが完成していないのだろうか。

  テストなどは十分に準備をしてから臨むタイプで、一夜漬けはほとんどしたことがなかった。中には準備しない科目もあったが、それは労力を割くまでもないと思ったからだ。結果はいらないと見切った態度だ。

  したがって、結果を出したいのに準備が出来ていない今の状況はかなり珍しくて、既に後悔している。思うに、課題に早く取りかかるには、諦めが必要だ。「この方法が間違っていても仕方ない」という諦めだ。「不安だから方法を調べて、方向性を定めてから取り掛かろう」と思っていると、一生それが終わることはない。

  

  今回の先延ばし行動について、理由はだいたい分かっている。期待を裏切るようなことをしたくないからだ。添削をしてもらって、それはそれは立派なESが書けたとしても、面接で同等の立派さを示せなかったら相手をがっかりさせてしまう。それが憂鬱だったのだ。では立派な受け答えが出来るように練習する?それはそれで「よく覚えたね」という印象しか与えられず、あまり有効ではない。

  別に期待を裏切ってもいい。分かっている。相手がどう思おうと私が気にすることではない。分かっている。理解と実践の間にはなぜこんなにも距離があるのか。なぜその距離は他人から見えないのか。なぜすぐ次のステップに進めると錯覚してしまうのか。

ゆでるという努力をすれば自動的にゆでたまごが出来ているというようなことは、人間社会においてまずない。努力はしているのに、どれだけの時間を費やしても一向に卵に火が通らない。「ゆでたまご」という枠に入れない。そんなことばかりだ。しかし、ゆでてるんだから自然とゆでたまごになれるでしょう、というプレッシャーは日々かけられる。そうじゃない。我々は卵ではなく人間なのだと忘れてしまったのか。

  努力に伴い自然と結果が出る、というのはかなり魅力的ではある。実際にそうなる場合もあるだろう。しかし、全てではないのだ。ある法則を全てに当てはめようとした時、歪みが生じる。それをいま目の当たりにしている人間だけがそれに気づく。例外を訴える。しかし、歪みが見えていない人間には伝わらない。バグか何かだから修正すればまた自動的に結果が出るようになると思っている。実は逆ではないのか。努力の分だけ結果が出る方が何らかのバグなのだ。

 

  私は長らくバグを見続けていたようだ。