出だしで躓く

出だし以外は躓かない

言いたいことを言うのは難しい

  色々とゴタゴタしたことが続いて疲れ切ってしまった。先週から学業を犠牲にして休んでいたのだが、やっとこうして文章が書けるくらいには回復した。

  ゴタゴタした中で、人間関係の断捨離を行った。今週中には捨てたかった関係を全て捨ててしまえるだろう。理想を追うばかりで、人と人との関係をあまり作れていなかった気がする。その場においての「正解」をかなり意識していて、思っていたような反応が返ってこないと腹を立てたりしていた。表には出していないつもりだが、実際はどうだか分からない。

  正解でなくとも、思ったことを言っていい。というか、言わないと生身の人間としての付き合いができないと気づいた。そもそも、私が勝手に作り出した正解であって、私さえ良ければ守る必要もなかった。

  求められてもいないのに聖母のようになろうとしていた。それで無茶な要求をぶつけられたのだろう。私は人間だし、嫌なことは嫌だし、「受け入れてくれるかも」なんて気持ち悪い期待はかけられたくない。それでいいんだ。そう思える一歩を踏み出した週だった。

  今後は「嫌なことを嫌だと言う」チャレンジをしていこうと思う。急に始めると怒りや不機嫌などの感情を過剰に使ってしまいそうだから、程度さえ気をつければ大丈夫そうだ。優しさやコミュ力といった有限資源をどう使うか、これはよく考えていきたい。それを使うに値しない人間もいるし、使ってしまったばっかりに起こったトラブルもあった。全体量を増やすのも大事だが、今は節約の時期だと思った。

 

  いつまで経っても人間関係で困るのは宿命なのだろう。

好き と 愛

「好き」の定義はかなり難しい。物に対しては「私に良い影響を与えてくれるから」で良いと思うが、人に対してはそうはいかない。与えてくれるから好き、では付き合えないし、好きというより搾取したいだけではないか。「好き」は「対価を支払える」という意味が強い。労力を割かないけど好き、というのは、結局そんなに好きではないことを示している。わざわざ買わないけどチョコレートが好き、と言われても納得できない。

  しかし、自分では何もしないけどあの人が好き、というのは結構あるパターンだ。人のセクシャリティは様々で、好きな人と共に生きることを重要視しないタイプもいるとは思う。あくまでも一般的なことをいえば、対価として何かを差し出せないのなら、それは好きではないと思っていいのかもしれない。

  正しい対価以上のものを差し出すことが愛なのだと聞いたことがある。とすれば、正式な対価すら支払えないという人とは恋愛できないだろう。

 

  好きなら違法ダウンロードじゃなくてちゃんと買え、と思った出来事から発展させていろいろ考えてみた。アーティストは人でありながら物やコンテンツに近い存在だから問題がこじれるのだろう。

  もう少しいえば、守ることと近いのかもしれない。海が好きといいながら海にゴミを捨てる人には違和感を覚えるように、「好きならそれを守って当然」という意識は知らぬ間に共有されている。一部の男性が「お前を守るから」と言いたがるのもここから来ているのだろうか。少なくとも、好きならば自らの手で壊すようなことがあってはならない。

  楽曲の違法ダウンロードは、アーティストの利益を奪うことで、前述した「壊す」ことにつながる。売上が伸びずに活動が出来なくなるアーティストは多い。その一端を担いながらも「好き」だと言い続けるのは矛盾している。

 

  嫌いなら対価を支払わなかったり壊すような行動をとってもいいわけではない。しかし、そういう行動は嫌っている人間がやるものだ。好き嫌いに関わらず対価は払うのが一番だが。

 

  日本の行き過ぎた「おもてなし文化」は、愛を求めすぎた結果であるように思う。愛に飢えた人間が多すぎる。そしてその原因は、需要や肯定や多様性に欠けた教育体制にあると思う。自分を愛せなくなった人々は誰かから愛を与えられなければ辛くて生きていけない。そうして行き着いた先が過剰なサービスか。大きな問題にたどり着いてしまったが、結局は一人ひとりが取り組む問題だ。私も早く自分を愛せるようになって楽に生きたいものだ。

感情をそのままにしておく

  たった今悲しいことがあったから、感情と自分を切り離す練習をしてみる。

  考えと私自身は別物だ。放っておけば流れていく。わざわざ捕まえてじっくり味わう必要もない。

  いま湧き起こった感情は、私から切り離された存在だ。ふがいない、情けない、申し訳ない、まだ足りない、そういった感情はただそこに「ある」だけだ。

  

  こうした練習を積んでいけば、3日間で合わせて10時間も泣くようなことをせずに済むのだろうか。そうであればいいなと思う。

明日を生きられる程度のポジティブ

  栗原類が「ネガティブすぎるモデル」としてテレビに出だした頃、何かのインタビューで「実は究極のポジティブ」なのだという記事を見たことがある。結局「なんとかなるだろう」という気持ちがあるからネガティブでいられるらしい。確かに、ネガティブな考え全てを真に受けていたらとっくに自殺している。ここまで生きてこれたということは、それくらいのポジティブさはあるのだろう。私もそんなものか。

  しかし、ネガティブすぎて体に症状が出るのはやめたい。昨日は腹痛と吐き気に襲われ、心当たりもあったから体調不良だろうと思っていたが、面接が終わるとすぐに治った。心因性だったのだ。本当に人のこころは不思議だ。(漢字表記とひらがな表記で意味が異なるらしいが、よく分からないのでひらがなにしておく)

  後輩は、就活をしているというだけで私のことをすごいと言ってくれているが、わたし以上に面接が苦手な人間など私の後輩にはいないように思う。なんだかんだ肝が据わっている子ばかりだ。誇らしく思うし、尊敬している。しかし、しゃべれなければ企業側は評価してくれないし(当たり前だが)、そういう評価の落差が辛くもある。友人や後輩は人柄について、先生は勉強面で良い評価をしてくれるが、企業には面接スキルでだいたい悪い評価をされる。面接で話せなくなる程度の熱意なら要らないのだろう。

  現代日本でも精神論は根強い。クララでさえも火事になったら走って逃げられると思っている。クララの足が動かないのは心因性ともいわれているし栄養失調だともいわれている。仮に心因性であれば走れる可能性もあるだろうが、それだって賭けのようなものだろう。就活は、クララを会議室に取り残して「本当に弊社に入りたいなら走れるよね!?」と火をつけているようなものだ。入りたくても出来ないものは出来ないのだ。本当に分かっているのだろうか。人手不足でありながら、出来ないことも精神力でカバーできる人間でないと採用しないとは、ずいぶんと余裕があるものだ。偏った人間でも採用すればいいし、補い合うように配置すれば業務面でも困らないだろう。まぁ、そもそもクララは就活などしないだろうが。

 

  私がこんなに疲弊しているのはこういうことを強いられているからだ。就活はいつどんな時でも流暢に話せる人間のためのシステムだ。私に向かないのは分かり切っていた。それでも逃げずに就活している。なんと健気なのだろうか。

 

   明日を生きられる程度のポジティブさを持って、私は今日も家を出る。

平坦な道

   前回の記事が3日前。正直に言うなら、その記事に書いたことは全て間違っていた。絶望していたら3日経っていた。明日は別の企業の面接だ。

  いろいろ考えてはいるが、何に頼ればいいのか分からず困惑している。行動を起こす恐怖に耐える気力もない。運に頼るのは心もとない。作り笑いのスキルが試されている。

  朝はやはりすごい。昨日までの憂鬱が綺麗になくなって、すっかり面接に備える気分になっている。どちらかといえば好戦的な感じだ。私は何も変わっていないのに、寝て起きるだけでここまで気分が変わるというのは不思議なことだ。

   本番でも落ち着いていられればいいが、こればかりはコントロールが及ぶところではない。「そのままの魅力が出せればいい」と言われてはいる。そのままの魅力とはなんだろうか。私は、今までにずいぶんと作為的なことをしてきた気がする。他者には私の何が見えているのだろうか。考えても仕方ない。

  ところで、最近新しい自信のつけ方を見つけた。「私は人を殺していない」と思い返すことだ。誰も殺していないのだから、目の前の相手に怯える必要はない、何を探られても痛い部分は無い、という思考回路だ。ここまでして、ようやく怖がらずに人と対峙できる気がしている。こういった試みは内容を変えて何度もしているが、あまり効果は得られなかった。今日こそは効いてほしい。

なるようにしかならない

  思うに、私は諦めるのが苦手だ。「頑張っても出来ないことがある」というのは世間では常識のようだが、私にはいまいちピンと来ない。器用貧乏なため、頑張ればある程度なんでも出来てしまったからだ。元来の(私は後天的なものだと思っているが)怖がりも作用して、あまりチャレンジをしてこなかったというのもある。UNOなどのカードゲームすら、上手くやれなかったら嫌だという理由で避けている。修学旅行でUNOの輪に入らないからといってニヒルを気取っているわけではない。ただ臆病なのだ。最近知ったことだが、上手くやれないという思いからから「出来ない」と物事を避けるのはうつ病患者と同じだそうだ。

  

  さて、明日は面接だ。しかも第一志望だ。私は緊張するようなイベントの前でも普通に眠れるタイプなのでそこは心配していないが、憂鬱なことには変わりはない。私はあと何回「面接の前日」を迎えなければいけないのだろうか。憂鬱だ。私が子供時代を少年漫画で過ごしていれば、今ごろ「オラ、ワクワクすっぞ!」という気持ちで布団に入れたのだろうか。とにかく憂鬱だ。ここの内定がほしい。もう面接前夜を過ごしたくない。しかし、この面接に受かってもあと二回は面接があるのだ。しかも最後は社長との面接だ。憂鬱すぎる。もう無理だ。なぜ世の中は人前で話ができる人の為に作られているのだろうか。パソコンに打ち込んで人工音声に読み上げてもらえばいいじゃないか。内勤でさえも人前でハキハキ話せる人材を欲しがるから明るいだけで真面目に仕事しないチャラチャラした人間ばかり引き当ててしまうんだ。内向的な人間も本領を発揮できる選考内容を考えてくれ。そしてそれは学力テストではないし、リア充自慢レポートでもない。

  気分が沈んだ時は寝るのが一番だ。すぐ朝になってしまう点がネックだが。早く明日が終わればいいのに。