出だしで躓く

出だし以外は躓かない

腕の異変

  肘の内側に蕁麻疹のようなものが出来ていた。まぶしいほどに赤く、その範囲は広く、不自然さと異常さを強く主張していた。

  虫刺されか?いや、ずっと図書館に居たし虫など見かけていない。紙袋の紐が擦れたか?それにしては凹部分がなく全てが凸だ。ストレスか?症状が出るほどは無いはずだ。考えた挙句、最後の案を採用し卒論を切り上げて帰ることにした。十分に睡眠をとっているはずなのに眠く、休んだはずなのに少し歩くのもきついと感じていたからだ。しかし、休めば治るとも思えないあのビジュアルを思い出し、帰り道に保健室へ寄って行こうかと考えた。日光の下で再び腕を見てみると、先ほどより赤みが薄まり、凹凸が多少滑らかになっているような気がした。少し希望が見えたのと、保健室へ行ったところで原因を特定できる可能性は薄いと考え直し、そのまま帰路についた。

  そして今、電車の中でこれを書いている。カーディガンの袖をめくり、あくまでも自然に確認してみると、いつも通りの白い腕が光を反射していた。こんなに即効性のあるストレス反応は初めてだ、と驚きながらも、治ったことに安心している。もし帰る途中に友人にばったり会っていたら、腕を見せて「これ分かる?こんな風になったことある?」と聞いていただろう。この話を切り出すためのセリフまで考えていた。

  ともかく、何もないのが一番だ。そんなつもりはなくとも、ストレスは自然と溜まってしまうらしい。次こそは卒論ゼミの資料をギリギリになって作り始めるようなことはしないと誓った。

好意と嫌悪

人が他者に嫌悪を感じるのは「老い」「貧困」「死」の三要素を連想させる時だと聞いたことがある。感覚でうすうす分かってはいても、こう断定されると理不尽さを覚える。老いている他者と関わっても自分が老いる訳ではないのに嫌悪を感じてしまう。これが本能というものなのだろうか。嫌悪を感じたから、自分は老いないようにしようと努力できるのだろうか。そのためのシステムか。それもありそうだ。

 

ところで、私は他者に(恋愛対象としての)好意を持たれると嫌悪を感じる。気持ち悪いからもう関わらないでおこう、と思う。これは先ほどの三要素とは別のものだろうと思っていたけど、よく考えれば「死」への嫌悪なのかもしれない。

  他者に好意を示された時に感じる、深い部分に踏み込まれた、という嫌悪。それは不自由への嫌悪だと思う。じゃあ不自由だと何が困るのか。死に繋がることだ。鎖に繋がれれば死を意識せざるを得ないし、精神的な拘束でもそれが原因で生命活動を制限されることになれば、死に至ることは十分ありえる。

  つまり、死が怖いからそのへんは仕方ない、と割り切るしかないということか。

  

  逆に、誰に好意を向けられても「嬉しい」と言い切り、その後も今まで通りの付き合いを続けていく人(こちらの方が一般的であるらしい)は、一体どういう感覚を持っているのだろうか。

 

  そもそも、深いところに踏み込まれたところで別に死にはしないのに私も用心深いものだ。前世ではストーカーに殺されたのかもしれない。  

評価癖

  広い教室は席が埋まるのも早い。ある後輩は、友達と並んで座れない日にはレジュメだけをもらって外のテーブルに座り、勘で感想カードを書いて出しているらしい。もちろん授業の内容など聞こえている訳もないので、スマホで調べたりして書いているのだろう。映像作品を見ることが多い講義だが、ほんの一部分しか見せないため、感想を書いた部分をその日の講義で紹介していたかどうかは賭けだ。「この作品は以前見たことがあり、〇〇の場面も今回の趣旨に当てはまり…」といった書き出しなら何回かは誤魔化せるだろうが、ずっとは使えない。つまり、その回は捨てているようなものだ。

  正直、「甘えるな」と思った。しかし、よく考えてみるとそれはおかしい。その後輩が甘えたことによって私は何も困らない。犯罪行為や人道に反するようなことでない限りは、私は彼の行動に口出しする意味は無い。

  それに、甘えたっていい。甘えたいときに甘えられる社会は望ましい。いつも厳しく追い詰められている必要は無いし、何より健全ではない。

  つまり、評価する癖がついているのだ。自分のことも他人のこともいちいち評価せずにはいられない。社会全体にそういう空気が蔓延していることもあり、完全に毒されていた。誰がどう生きたって私が気にすることではない。  好ましいものだけ取り入れていけばいい。

  誰かに悪い評価を下されても、私は気にする必要がないのだ。私は「評価してください」と言っていないし、その人は評論家でも裁判官でもない。信用のない人が下す評価など、気にかけなくていい。

  私は、ただ自由に、楽に生きていたい。  

 

 

裁かない (幸せに生きるための3週間プログラム)

裁かない (幸せに生きるための3週間プログラム)

 

 

親の年齢

  おそらくコンプライアンス的にはダメなのだろうが、就職面接で親のことを聞かれたことがある。そこで年齢について聞かれた時、確信は無かったがだいたい合っているだろうと思い「53歳」だと答えた。今日改めて聞いてみると、63歳だった。つまり、最後に親に年齢を尋ねたのが10年前ということだ。そんなに経っているとは思わなくてとても驚いた。それと同時に、企業側にかなり大胆な嘘をついていたことになり、なんだかおかしくなった。

  親の年齢が何だというんだ。親の影響が何だというんだ。どんな家庭でも私はまともに育つ自信がある。

   あるアイドルオーディションでは、ある程度お金持ちの家の子しか採らなくなったとファンの間で噂されている。貧しい家庭のメンバー何人かがスキャンダルを起こしてしまったためだ。つまりそういうことだろうか。アイドル事務所でもないのに生意気だ。

 

   さて、この企業についてだが、選考に落ちた時点で大学に相談するつもりでいる。第二志望の企業だが、コンプライアンスに反することはやはりダメだ。ダメなものはダメだ。もしそのまま就職することになっても必ず報告はするだろう。そういうところを、この企業は見抜けるだろうか。

安心

  安心は宗教である。信じることでしかもたらされない。信じようと思って信じられるものだろうか。どこからが信じていることになるのだろうか。100%疑っていることもそう無いし100%信じていることもそう無い。

  安心はなかなか手に入らない貴重なものである気もするし、ちょっとした工夫で手に入る身近なものである気もする。一生手に入らない気もするし、明日には安心に身を任せている気もする。

  

  今は何も考えられそうにない。まぶたが重く、体がだるい。今日はゆっくりすることにしよう。ゆっくりできるのは久しぶりではないか、と手帳を見返したけど、やっぱり考えるのはやめた方が良さそうだ。

これでいい

今の自分を「これでいい」と思うことはたいへん難しい。誰よりも自分の矛盾を認められない。矛盾を指摘されたらと思うと怖い。しかし、そもそも人は矛盾が集まって出来ているようなものだ。実在しないものを追い求めるようなことはもう辞めたと思っていたが、まだまだ現役だったようだ。「これでいい」のだし、こうあるしかないのだ。自分ではない何者かにはなれない。

  幸せとは、既にあるものに感謝することなのだそうだ。だから、幸せになりたいと思っているうちはずっと不幸だ。

  つまり、何者かになりたいと思っている限りいつまでもそんな日は来ることはなく、いま自分にあるもので勝負しようと腹をくくると変化が訪れたりするものなのだろう。悪あがきをせず、あるものを見せる。それでやっていくしかない。

 

  私には思い通りに物事を動かす能力がある。そういう運を呼ぶ力がある。信じるしかない。

神経質と安心

  昨日は帰宅したあと家で就活の書類を書くなどの作業をした。家では集中できないからだいたい外で済ませていたのだけど、締め切りが近くてそうも言えなくなってきた。案外すんなり集中できたのはいいが、締め切りが近くなければこうもいかないのだろう。

  急に神経質な面が出てきて困った。こだわったところで一ミリのズレもなく紙を貼るなど手作業で出来るわけもないのに、なぜだかもう一回やり直したくなってしまう。おそらく、こだわった分だけ「受け入れられるはずだ」と自分の中で信じることができるのだろう。100%を出せば受け入れられるはず、この考え方は、実は危ないのではないか?

  受け入れられるはず、なんてことはある訳もなく、ただ自分が後悔しなくて済むだけだ。それも大切な要素だろうが、自然と主題がすり替わっているのは危険だ。それに、100%を出すための過程で逆に作品の質を下げてしまうことは普通にある。安心のために質を下げるのは本末転倒ではないのか。

  

  安心を得るのはかなり大変だ。そんなものこの世には無いのではないか、と思える時でもその存在を信じ続けるしか方法は無い。安心とはある種の信仰なのだろうか。