出だしで躓く

出だし以外は躓かない

どの服を着ていく?

  今日は友達と会う。お互いネガティブで自己評価が低く、何度も励まし合ってきた。さらに、数少ない趣味友達でもあり、とても貴重な存在だ。その友達がいつも可愛い服を着ているから、私も似たテイストの服を選んで来た。ちょっとしたコスプレをしているような気分だ。

  そういえば、相手に合わせて服を変えるようなことは昔からやっていた。相手がTシャツとデニムで来ると分かっているのに、私はワンピースを着ていく、というようなことはなかなか出来ない性格だ。社会性の表れなのか人の目を気にしすぎなのか分からないが。ラフな格好をしたい時もあるし、ワンピースを着たい時もある。その服装でも恥ずかしくない相手を選んでいるのだと思う。その分、何も気にせず自分の好きな服装をしている人を羨ましく思う時もある。しかし、基本的には好きな格好をしていて、タイミングを選んでいるだけなので特に不満はない。

 

  そういえば、ある男性嫌いの女性の話を聞いたことがある。女子会だと聞いていたからヘアアレンジをしてきたのに、後で男子が合流することが分かると、せっかく可愛くアレンジしてきた髪をほどいてしまったそうだ。さらに「男が来るとわかってたらお気に入りのワンピースなんか着てこなかったのに」とも言っていたらしい。おそらく、男性に自らの女性性をアピールするようなことをしたくない、という意味なのだと思う。同性同士なら「可愛い」で終わる話でも、異性同士だと「可愛いと思ってほしい」という媚になってしまうのだろう。いっそ、女子には可愛いと思われたいけど男子には可愛いと思われたくない、ということかもしれない。

  ここまで来ると可哀想だが、気持ちは想像できる。好きなタイミングで好きな格好をするというのは、案外難しいのかもしれない。

遅れてきた全能感

  なんだって「したい」が先にあって、後で理由を探している。それは自分のためかもしれないし、誰かのためかもしれない。ちょうどいい理由が見つかった時は心が踊る。

  私にとって「したい」が無い人生は地獄だ。「したい」と思いながら「できない」とモヤモヤする。そういう生活を送る運命なんだろう。だから、私は我慢強くならなければいけない。「できない」モヤモヤに耐えつつ力を蓄えるスキルが必要だ。先を急いで何度も失敗してきた。この世にはコントロールできないことがある、という当たり前のことを何度も叩きこまないといけない。

 

  他者や環境をコントロールして安心したいのは、自分一人では満たされていないからかもしれない。そういえば、昨日読んだ本に「多くの人は敵でもないし味方でもない」と書かれていた。そういうフラットな考え方は私にとって難しい。敵にも味方にもなりうるという点で、敵(味方)候補ということではないか。その人が敵意や悪意を持っていそうだ、と私が判断すれば敵候補として敵フォルダに入れる。つまり、結局は敵と味方の二択に落ち着いてしまうわけだ。何があっても敵にも味方にもならない人などいるのだろうか。いるとすれば、それは先生かもしれない。いや、先生は学生なら誰にでも味方の顔をしそうだ。実際はどうであれ、そういう顔をするのが教授という職業の特徴なのだと思う。

  「グレーにしておく勇気」が今後のテーマになりそうだ。

糖質制限の話

  なんとなくプチ糖質制限のような状態になっている。砂糖をあまり摂らなくなって、夜の炭水化物も少なめにしている。先月の食べられない時期を経験してから「意外と食べなくても大丈夫だな」と気づいた。これは精神的に、という意味だ。なんとなく、娯楽としての食事をしないと精神的に満たされないような気がしていた。そんなことはなかった。今は間食をほぼ無くしているけど、逆に快適なくらいだ。お菓子の類は食べればもっと欲しくなるし、食べなければそれで平気になる。そういうものだったらしい。

  そんなことをしているから、実は体重が戻っていない。でも、それでいいと思っている。顔のむくんでいない朝は本当にストレスが少なくて良い。目覚めも良くなった気がする。その代わり、吐き気がするようになった。胃が空になっている時間が長いからだろう。しかし、それ以前だって吐き気がある朝はあったし、そんなに大層なことではない。

  昼に麺類を食べられるようになったことも、プチ糖質制限生活の利点だ。これまでは炭水化物に偏るのを気にして、麺類は避けていた。今では、どうせ夜は控えるのだからと心置きなくうどんもパスタも食べている。

  結局、ストレスを溜めないようにするのが一番なのかもしれない。「いらない」と切り捨てるのは好きだが、「ダメだ」と押さえつけるのは嫌いだ。後者にならないように気をつけながら、余分なものは全て手放す。神経質な私が少ないストレスで生きていくには、そういうことが必要なのだろう。

朝と希望

  今日は家を出るまでに時間があったから、軽く運動をして、書類の整理をして、欲しいものを買ってから登校している。充実した朝だ。これが朝活というものかもしれない。

  しかし、どんな朝を過ごしたところで帰りには忘れている。自律神経は落ち着いているだろうが、体感としてはよく分からない。朝はゆっくりできても昼にバタバタしてしまったら自律神経は乱れるから同じといえば同じだ。

  朝は不思議だ。何もなくとも希望が湧いてくるからだ。  何でも出来る気がする。何をしても大丈夫な気がする。一日を通してそういう気分でいられたらいいのに。

  私は何にでも持続性を求めてしまう癖があるのだけど、世の中そんなに上手く行かない。気分転換したつもりで辛い気分から繰り返し目を逸らし続けるしかない。

  せめて、目を逸らした先を好きなものでいっぱいにしておくのが大人というものだろうか。

他己紹介

  友達に他己紹介してもらったら完全に心が満たされた。授業で何回かやる機会があったらしく、急に頼んだのにかなり色々なことに言及していて驚いた。

  忘れたくないからここにも書いておく。自分で書いてしまうと自画自賛のようだけど仕方ない。仕方ない!

 ・ワードセンスが良い。コメントが斜めから来るからびっくりするし面白い。学科の勉強が生きている。

・ファッショセンスが良い。いつもオシャレな服を着ている

・コンサルとか向いてる

・いろいろな知識があるのが分かる

らしい。 他にも何かあった気がするけど忘れてしまった。忘れたくないのになんで忘れてしまうんだろう。忘れた方がいいことはなぜずっと覚えているのに。

 

  人を励ますように自分を励ませないのはなぜだろうね。誰かが自分を卑下すると「そんな風に思わなくていいよ!」と真剣に言えるのに、自分に対しては言えない。

  その友達は、人の長所に目を向けるようにしていると言っていた。私はわりと短所も見ているなと気づいた。それは、どうしても困った時に、いざとなったら陥れるためだ。弱点を知っておきたい、という心理から短所も鋭く見ている。世界は私にとって味方ではなかった。その名残だろう。そういうことをしなくなったら幸福度が上がりそうだ。

  しかし、別に無理してそういう思考をやめようとは思わない。サイコパシーが高い人間は必ずいるし、そういう人の餌食にならないとも限らない。弱点を把握しておくこと、そして良い人でいること。自分に出来るのはそれしかない。弱点を付いたり劣等感を刺激したりして遊びたがってしまうので、そこだけ抑えればいい。上手いことイジリに昇華させられたらまた違うのかな。

身の振り方は何歳になっても悩みそうだ。

やるべきこと、やりたいこと

  なぜ朝はダラダラしてしまうのだろう、と考えていたけど、普通に夜もダラダラしていた。していないのは大学にいる時だけだ。空きコマがあっても暇だと思ったことはない。ふたコマ続けて空いていても余裕だ。今の時期なら卒論かESを書いていればあっという間だし、昨年まではレポートか課題をやっていた。運良くそれらが無かったら入念に復習をしたり、それすらしなくていい日なら興味の赴くままに本を読んでいた。とにかく、時間があって困ることなど無かった。今では90分の空きを少ないと思うようになった。ちゃんとした文章を書くのはけっこう大変で、90分ではまず仕上がらないからだ。

  逆に、暇だと思うのは30 分から1時間の空き時間だ。勢いが出てきた頃に止めなければいけないから文章を書く作業はしたくない。かといって、ネットを見続けて暇を潰すのもなんだか嫌だ。

  そもそも、暇を潰したくない。空きができたからやりたいことをやる。そうやって生きていきたい。やりたいことをいつでも出来る人生。そういうのもいいな。

  

  占いによると、私は自由を求めるタイプらしい。あまり占いを信じる方ではないし、ファッション誌の占いコーナーの内容だって閉じた瞬間に忘れているくらいだ。しかし、なんとなくこれは信じている。自由に生きたいというのは普遍的な願望だとは思う。だが、それを抑圧するような社会だ。そんな社会で「占いでそう言っていたから」を理由に私は自分で自分にOKを出す。理想的な占いとの付き合い方ではないだろうか。

  人々が生きたいように生きるためのツールが増えてほしい。日本は人々を脅しすぎなのだ。

また飲んできました

  楽しい飲み会と楽しくない飲み会では何が違うんだろう。今回は後者。このメンバーでの二次会はもう行かなくていいなと思った。びっくりするほど楽しくなかった。何故だろう。

  一番は、興味が持てなかったことだろうか。知り合いである二人はそこそこ付き合いが長く、その結果「合わないな」と気づいている人たちだから本当に興味がない。この二人の喋りを聞けば聞くほどテンションが下がっていった。だって、もう何度も聞いている話ばかりだ。

  興味があるよく知らない人たちは、その人たち同士で話し込んで離れようとしなかったり、質問にまともに答えずボケて終わるタイプだったりした。質問する、ボケる、ツッコむ、笑う、終わり。何も発展しない。掘り下げられない。普通の会話ができない。

  楽しく会話をするにはまず相手に興味を持つこと。そして、ボールを返してくれる相手を選ぶこと。当たり前だけど、その大切さに改めて気づいた。

 

なぜ二次会へ行かずに帰るとそわそわしてしまうのだろうか。もっと楽しい世界が広がっているかもしれないのに、と期待してしまうから、というのがまず一つ。その場から離れるのが寂しいから、が二つ目。興味のある人ともっと話したいから、が三つ目。一次会で帰るのは大変スマートだとは思う。それがこんなにも難しい。二次会の初対面メンバーとは誰とも仲良くなれずに帰ってきた。それも地味にきつい。

  しかし、前回の飲み会のメンバーだったら迷わず二次会まで居座ってしまうんだろうな。このメンバーなら楽しいはずだから、と期待して。私が二次会によって捨てざるを得なかったものはいろいろある。明日の早起き。日中の集中力。その日はおそらく早寝も出来ない。また翌日に響く。

  まずいもので腹を満たすことが不快であるように、今日の楽しくない時間で明日の時間を食いつぶしたとなれば平静ではいられない。     次回もしこの飲み会に参加した時はなんの躊躇もなく一次会で帰れる。その収穫があったことだけはよかったと思える。

  とにかく今日は早く寝て、出来るだけ早く起きる。それが私にできる唯一のことだと思う。