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出だしで躓く

出だし以外は躓かない

軽い気持ちで未来に期待する

  ESは昨日のうちに完成したんだけど、時間をギリギリまで使ってしまってちょっと驚いた。一つの項目に2時間もかかるとは。集中力のいる作業だったけど、箇条書きの文章をくっつけて解体して、文章が仕上がっていく光景は楽しくて癖になりそう。普段あんなに真面目に文章を書かないから。ここでそういうことをすればいいのかもしれないけど、さすがに2時間は費やせない。いや、ギリギリ出来るかも。今月中にはやってみよう。

 

  昨日のエントリを読み返すと、にじみ出るあまりの絶望に笑いそうになる。どんなに悪い結果になったとしても、やる前ほどには絶望しない。つまりそれは不安と呼ばれるもので、私の核であるともいえる。私は予期不安のプロだから。

  今日は一次選考で、いつものように不安を感じている。ずいぶんゆっくり就職活動をやっているものだから、筆記以外の選考を受けるのは今日が初めてだ。でもきっと、終わってしまえば今よりは晴れやかな気持ちなのだろう。こんなことをずっと繰り返してきたはずなのに、いまさら気づくなんて、なんと忙しい人生だったんだろう。今になって、やっとそういうことを考えられる余裕が出来たんだ。

  今は生き方を決める時期だ。これまでは迷いがあったものの、今では自信を持って望む生き方を語ることが出来る。それが間違っていてもいい、という覚悟ができたということだ。逃げずにここまで来られたことを誇りに思う。

 

  明日はレポート作成でまた集中力を発揮しなければいけない。先延ばしのツケだ。しかし、なんとなく不安は少ない。

生活は、楽しくやれると確信してからが面白い。

先延ばし

  なぜ人は重要なことを先延ばしにしてしまうのか。なぜ締め切り間近しかやる気を出せないのか。締め切りが近くなると「なんの躊躇もなく無理が出来る」というだけで「本領を発揮できる」という訳ではない。やるべきことをやっているとき、精神は安定する。先延ばし行動は不安を生むだけだ。なのになぜ、私は締め切りの前日になってもESが完成していないのだろうか。

  テストなどは十分に準備をしてから臨むタイプで、一夜漬けはほとんどしたことがなかった。中には準備しない科目もあったが、それは労力を割くまでもないと思ったからだ。結果はいらないと見切った態度だ。

  したがって、結果を出したいのに準備が出来ていない今の状況はかなり珍しくて、既に後悔している。思うに、課題に早く取りかかるには、諦めが必要だ。「この方法が間違っていても仕方ない」という諦めだ。「不安だから方法を調べて、方向性を定めてから取り掛かろう」と思っていると、一生それが終わることはない。

  

  今回の先延ばし行動について、理由はだいたい分かっている。期待を裏切るようなことをしたくないからだ。添削をしてもらって、それはそれは立派なESが書けたとしても、面接で同等の立派さを示せなかったら相手をがっかりさせてしまう。それが憂鬱だったのだ。では立派な受け答えが出来るように練習する?それはそれで「よく覚えたね」という印象しか与えられず、あまり有効ではない。

  別に期待を裏切ってもいい。分かっている。相手がどう思おうと私が気にすることではない。分かっている。理解と実践の間にはなぜこんなにも距離があるのか。なぜその距離は他人から見えないのか。なぜすぐ次のステップに進めると錯覚してしまうのか。

ゆでるという努力をすれば自動的にゆでたまごが出来ているというようなことは、人間社会においてまずない。努力はしているのに、どれだけの時間を費やしても一向に卵に火が通らない。「ゆでたまご」という枠に入れない。そんなことばかりだ。しかし、ゆでてるんだから自然とゆでたまごになれるでしょう、というプレッシャーは日々かけられる。そうじゃない。我々は卵ではなく人間なのだと忘れてしまったのか。

  努力に伴い自然と結果が出る、というのはかなり魅力的ではある。実際にそうなる場合もあるだろう。しかし、全てではないのだ。ある法則を全てに当てはめようとした時、歪みが生じる。それをいま目の当たりにしている人間だけがそれに気づく。例外を訴える。しかし、歪みが見えていない人間には伝わらない。バグか何かだから修正すればまた自動的に結果が出るようになると思っている。実は逆ではないのか。努力の分だけ結果が出る方が何らかのバグなのだ。

 

  私は長らくバグを見続けていたようだ。

表面だけでも

  毎日書くのが大事、と言われていたのに気づいたら三日くらい平気で空いてしまう。だって、そんなに毎日毎日書くことがない。続けていたらネタを見つけるような視点で世界を見られるようになるよ、らしい。分かっている。分かった瞬間に実践できるという便利な機能はない。

 

  ネタで思い出したけど、先日の飲み会でウーロン茶を盛大にこぼしてしまった時、とっさに「一生ネタにできるやん」と口走った。そういう思考をしていることに驚いたし、ちょっと安心した。本心を隠して笑っていれば本当に笑えるようになるんだな、と思った。

なんでも「フリ」をするのが大事だと聞いたことがある。「形から入る」と同じことかもしれない。その話を聞いたとき「私は一生、健全な人のフリをするんだな」と思った。ここでの「健全」は、自己受容が出来ていて自分一人で満足できていて他者を攻撃しない、という意味だ。そんな人は少ないだろうが、自然とそう育ってきた人もいると確信している。羨む気持ちが強かったけど、実際に思考パターンが変わると分かれば、少しは楽な気持ちで健全な人のフリが出来るだろう。

『君の膵臓を食べたい』

  文庫版を母が買ってきていたので読んでみた。一言でいえば、これは少女漫画だ。そして、私は少女漫画が好きじゃない。つまり、この作品はどう頑張っても好きになれない。

 

  まず主人公とヒロインが好きじゃない。他人に興味がない主人公と自分の感情第一のヒロイン。まるで『涼宮ハルヒの憂鬱』のキョンハルヒ。高校生という多感な時期でありながら、ここまで他者の反応を必要としない女子はいない。思春期の女子なんて共感でしか繋がれないようなものだ。恋愛感情もないのに、相手が否定しても「仲良し」と言い張ったり、乗り気じゃない人間を一泊二日の旅行に連れ出したりしない。でもフィクションだからいいの?何がいいの?

  正反対の二人が補い合うみたいな良い話にしたいんだろうけど、そうなってないから。主人公の初めての友達になって、人との関わり方を教えてあげて、成長させる。あなたは私にとって必要な人間だよ、あなたは魅力的だよ、みんなに分かってもらおう、と語りかけられて死後の友人関係まで保証されてる。そこまでしつつ暗い面は極力見せないで主人公に負担をかけない。こういうご都合主義なのがダメなの。何も出来ない主人公が急にモテ出してハーレムを作る漫画と同じ。同じなんだよ。漫画でやってくれ。

 

  そもそも、ヒロインが主人公を「恋人にしたくない」と思っている、という設定にも無理がある。冗談とはいっても、何度も誘うような素振りを見せたり抱きついたりしているのだ。もちろん、実際は恋愛感情がありながら、本人が無いと思いたがっているという線もある。自らの余命を知っているから、心の内側に入り込むようなことはしない。それなら納得できる。

  短い時間で距離を縮めて、互いに相手が自分のことをどう思っているか気にしていて、互いに憧れ合っている。こんな二人を恋愛関係にしなかったのは、爽やかな青春物語という枠に入れたかったからとしか思えない。前述したように、性的な面を見せる場合もあった。それでいて「恋愛関係は望んでいません」とするのは白々しい。二人が心を通わせていたことすら嘘っぽく見える。そうした方が読者の感動を誘えるからでしょ?と冷めた目でしか見れない。

  既に漫画化されているようだけど、初めから漫画として出せばよかったと思う。第二の「四月は君の嘘」みたいになれたんじゃないだろうか。読んでないけど、一度だけアニメは見たことがある。ヒロインの性格、わりと似ている思うよ。死にそうなキャラを底抜けに明るくて図々しい性格にするのが流行ってるの?流行ってるんだろうね。そういう人間がふと不安そうな表情を見せたり、死への恐怖を語ったりするとより響くんだろうね。あー馬鹿馬鹿しい。使い古された手を使われると冷めちゃう。余命宣告を受けた人間は絶望したり焦ったりして生きているに違いないっていうイメージがあるからわざと逆を行きましたってね、はいはい。定番の手法を使ってるのが悪いんじゃない。冷めさせるような出来なのが悪い。上手くやれば伝統芸能枠に入れたのに。

  そして、最後の遺書部分。括弧の中がまぁあざとい。読者に分からせる為です!!!!と全身全霊で言っている。本文もあざといけど真骨頂はやっぱり括弧書きだよね。ここまで読者を意識されると気持ち悪いし萎える。推理小説の謎解き部分でももっと上手くやってるわ。探偵が気づいたことをお話してます、という体を守ってるわ。

 

  もしかして、これ主題なんか無いんじゃない?爽やかな青春物語(のつもり)を見せて感動した〜と言わせたいだけなんじゃない?本の帯になんて書いてたと思う?「読後、きっとこのタイトルに涙する」だって。つまり、そういうトリックを仕掛けてますよ、と高らかに宣言している。タイトルの意味がメインコンテンツになる。しかし、それはメインを張れるようなものじゃない。じわじわ水漏れのようにネタバレしていたのもあって、タイトルの正体が分かったところで「まぁそうだろうな」としか思えない。読者は、タイトルの意味を考えてくださいと言われたら、読後に「やられた!」と言いたくなるような展開を期待する。そして、この本の帯は「期待していいですよ」と言っている。それがこれでは、読者に失礼ではないか。

  同じようにタイトルの種明かしをメインにしている『すべてがFになる』と比べても酷い出来だ。こちらは殺人事件の解決というインパクトの強いネタに絡めているから「やられた!」と思いやすいという点もあると思う。しかし、それを考慮しても本作はもうどうしようもない。

 

  なんで自分がここまで怒っているのか、やっぱり「説得力に欠ける」の一点だろうな。ヒロインが「17年、私は君に必要とされるのを待っていたのかもしれない」とまで言う理由がさっぱり分からない。だからご都合主義に見える。私がこの主人公を魅力的だと思えたら「感動した!」と言えるんでしょうね。

 

飲み会

  こんな暗い感じの文章を書いているわりに、飲み会が好きな部類の人間だ。昨日は約二ヶ月ぶりの飲み会だった。酔うとこんな感じになるんだ、と思い出した。同じテーブルに20分も留まれないし、とにかく誰かに絡みたがる。うざい人になってるなと思いつつ、酔ってるから自制しない。ただでさえプレッシャーが強い世の中だから、自制しなくていい場はそりゃあ楽しいよね。そういう酔っ払いを見て下戸はうんざりするんだろうけど。

  4年生になって、飲み会が同級生か年下しかいないという場になってしまったからさらに悪化したという側面はある。もし年上だったら面倒だから、今までは年下にも敬語を使っていた。敬語からタメ口に変えるタイミング、普通に分からない。

  楽しかったけどちょっと寂しい。先輩先輩と言ってくっついていたい。こういうところが末っ子気質なんだと思う。上がいればべったり、いなかったらウロウロ。意外とちゃっかりしたタイプなのかも。

どうでもいい、の力

  体重が3kg落ちていた。

  およそ半月くらいは上手く食べられない日が続いているという話をしたら「体重を量ってみて」と言われた。どこからが減りすぎですか、と聞くと、3kgかな、と返答があった。そんなに落ちているはずがないと思っていたら、数字を見て驚いた。

  お腹まわりがちょっと細いかな?とは思っていたけど、脚は逆に太くなったくらいだ。調べると、食べないダイエットをするとそうなるのだそうだ。心当たりがある。高校時代の私だ。肩は骨が浮き出るくらいだったのに、脚はパンパンだった。当時のズボンは今では緩い。

  高校時代は食べるのが嫌で食べていなかったのだけど、今は食べられなくて困っている。お腹が空かなくて、食べたら気持ち悪くなる。そんなにストレスを溜めているつもりもないのに。不安があるだけで悩みはない。神経質で気分屋で、少しのことで不安を感じる性格なのは分かっていたけど、最近は就職活動を通して、どうでもいいと思うことが増えている。就職先が決まらなかったらそれはそれでいい。食べられないならそれでもいい。そういう気持ちが確実に大きくなっている。良いことだ。「○○だったらどうしよう」がお決まりの思考パターンだったからだ。執着が無くなるのは気持ちいい。  

  なんとなく、今日の飲み会では食べられる気がしている。なんとなく、今日を境に食欲が戻る気がしている。たとえその予想が外れてもがっかりしない。それだけ決めておけば、どうにかなると思える。人生、そんな感じでいのかもな。

 

  という訳で、最近ろくな文章が書けないのは栄養が足りないせいだとしておく。

  最近はよくLINEでのやり取りを読み返す。LINEで素を出すようになったからだと思う。以前は、相手の機嫌を損ねないようにとしか考えられなかった。

  寝る前にLINEが来て、寝ると言い出せずやり取りをしていた時、ついに鬱陶しくなってなんの配慮もせず返信してしまった。「投げやりになったな」と気づかれて愛想をつかされると思った。実際はその逆で、話が弾んだ。人間って分からないものだなと思った。それからは、誰に対しても素で返信することにしている。  

  「返信してくれて嬉しい」から「やり取りが楽しい」への変化は大きい。