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出だしで躓く

出だし以外は躓かない

安心

  安心は宗教である。信じることでしかもたらされない。信じようと思って信じられるものだろうか。どこからが信じていることになるのだろうか。100%疑っていることもそう無いし100%信じていることもそう無い。

  安心はなかなか手に入らない貴重なものである気もするし、ちょっとした工夫で手に入る身近なものである気もする。一生手に入らない気もするし、明日には安心に身を任せている気もする。

  

  今は何も考えられそうにない。まぶたが重く、体がだるい。今日はゆっくりすることにしよう。ゆっくりできるのは久しぶりではないか、と手帳を見返したけど、やっぱり考えるのはやめた方が良さそうだ。

これでいい

今の自分を「これでいい」と思うことはたいへん難しい。誰よりも自分の矛盾を認められない。矛盾を指摘されたらと思うと怖い。しかし、そもそも人は矛盾が集まって出来ているようなものだ。実在しないものを追い求めるようなことはもう辞めたと思っていたが、まだまだ現役だったようだ。「これでいい」のだし、こうあるしかないのだ。自分ではない何者かにはなれない。

  幸せとは、既にあるものに感謝することなのだそうだ。だから、幸せになりたいと思っているうちはずっと不幸だ。

  つまり、何者かになりたいと思っている限りいつまでもそんな日は来ることはなく、いま自分にあるもので勝負しようと腹をくくると変化が訪れたりするものなのだろう。悪あがきをせず、あるものを見せる。それでやっていくしかない。

 

  私には思い通りに物事を動かす能力がある。そういう運を呼ぶ力がある。信じるしかない。

神経質と安心

  昨日は帰宅したあと家で就活の書類を書くなどの作業をした。家では集中できないからだいたい外で済ませていたのだけど、締め切りが近くてそうも言えなくなってきた。案外すんなり集中できたのはいいが、締め切りが近くなければこうもいかないのだろう。

  急に神経質な面が出てきて困った。こだわったところで一ミリのズレもなく紙を貼るなど手作業で出来るわけもないのに、なぜだかもう一回やり直したくなってしまう。おそらく、こだわった分だけ「受け入れられるはずだ」と自分の中で信じることができるのだろう。100%を出せば受け入れられるはず、この考え方は、実は危ないのではないか?

  受け入れられるはず、なんてことはある訳もなく、ただ自分が後悔しなくて済むだけだ。それも大切な要素だろうが、自然と主題がすり替わっているのは危険だ。それに、100%を出すための過程で逆に作品の質を下げてしまうことは普通にある。安心のために質を下げるのは本末転倒ではないのか。

  

  安心を得るのはかなり大変だ。そんなものこの世には無いのではないか、と思える時でもその存在を信じ続けるしか方法は無い。安心とはある種の信仰なのだろうか。

どの服を着ていく?

  今日は友達と会う。お互いネガティブで自己評価が低く、何度も励まし合ってきた。さらに、数少ない趣味友達でもあり、とても貴重な存在だ。その友達がいつも可愛い服を着ているから、私も似たテイストの服を選んで来た。ちょっとしたコスプレをしているような気分だ。

  そういえば、相手に合わせて服を変えるようなことは昔からやっていた。相手がTシャツとデニムで来ると分かっているのに、私はワンピースを着ていく、というようなことはなかなか出来ない性格だ。社会性の表れなのか人の目を気にしすぎなのか分からないが。ラフな格好をしたい時もあるし、ワンピースを着たい時もある。その服装でも恥ずかしくない相手を選んでいるのだと思う。その分、何も気にせず自分の好きな服装をしている人を羨ましく思う時もある。しかし、基本的には好きな格好をしていて、タイミングを選んでいるだけなので特に不満はない。

 

  そういえば、ある男性嫌いの女性の話を聞いたことがある。女子会だと聞いていたからヘアアレンジをしてきたのに、後で男子が合流することが分かると、せっかく可愛くアレンジしてきた髪をほどいてしまったそうだ。さらに「男が来るとわかってたらお気に入りのワンピースなんか着てこなかったのに」とも言っていたらしい。おそらく、男性に自らの女性性をアピールするようなことをしたくない、という意味なのだと思う。同性同士なら「可愛い」で終わる話でも、異性同士だと「可愛いと思ってほしい」という媚になってしまうのだろう。いっそ、女子には可愛いと思われたいけど男子には可愛いと思われたくない、ということかもしれない。

  ここまで来ると可哀想だが、気持ちは想像できる。好きなタイミングで好きな格好をするというのは、案外難しいのかもしれない。

遅れてきた全能感

  なんだって「したい」が先にあって、後で理由を探している。それは自分のためかもしれないし、誰かのためかもしれない。ちょうどいい理由が見つかった時は心が踊る。

  私にとって「したい」が無い人生は地獄だ。「したい」と思いながら「できない」とモヤモヤする。そういう生活を送る運命なんだろう。だから、私は我慢強くならなければいけない。「できない」モヤモヤに耐えつつ力を蓄えるスキルが必要だ。先を急いで何度も失敗してきた。この世にはコントロールできないことがある、という当たり前のことを何度も叩きこまないといけない。

 

  他者や環境をコントロールして安心したいのは、自分一人では満たされていないからかもしれない。そういえば、昨日読んだ本に「多くの人は敵でもないし味方でもない」と書かれていた。そういうフラットな考え方は私にとって難しい。敵にも味方にもなりうるという点で、敵(味方)候補ということではないか。その人が敵意や悪意を持っていそうだ、と私が判断すれば敵候補として敵フォルダに入れる。つまり、結局は敵と味方の二択に落ち着いてしまうわけだ。何があっても敵にも味方にもならない人などいるのだろうか。いるとすれば、それは先生かもしれない。いや、先生は学生なら誰にでも味方の顔をしそうだ。実際はどうであれ、そういう顔をするのが教授という職業の特徴なのだと思う。

  「グレーにしておく勇気」が今後のテーマになりそうだ。

糖質制限の話

  なんとなくプチ糖質制限のような状態になっている。砂糖をあまり摂らなくなって、夜の炭水化物も少なめにしている。先月の食べられない時期を経験してから「意外と食べなくても大丈夫だな」と気づいた。これは精神的に、という意味だ。なんとなく、娯楽としての食事をしないと精神的に満たされないような気がしていた。そんなことはなかった。今は間食をほぼ無くしているけど、逆に快適なくらいだ。お菓子の類は食べればもっと欲しくなるし、食べなければそれで平気になる。そういうものだったらしい。

  そんなことをしているから、実は体重が戻っていない。でも、それでいいと思っている。顔のむくんでいない朝は本当にストレスが少なくて良い。目覚めも良くなった気がする。その代わり、吐き気がするようになった。胃が空になっている時間が長いからだろう。しかし、それ以前だって吐き気がある朝はあったし、そんなに大層なことではない。

  昼に麺類を食べられるようになったことも、プチ糖質制限生活の利点だ。これまでは炭水化物に偏るのを気にして、麺類は避けていた。今では、どうせ夜は控えるのだからと心置きなくうどんもパスタも食べている。

  結局、ストレスを溜めないようにするのが一番なのかもしれない。「いらない」と切り捨てるのは好きだが、「ダメだ」と押さえつけるのは嫌いだ。後者にならないように気をつけながら、余分なものは全て手放す。神経質な私が少ないストレスで生きていくには、そういうことが必要なのだろう。

朝と希望

  今日は家を出るまでに時間があったから、軽く運動をして、書類の整理をして、欲しいものを買ってから登校している。充実した朝だ。これが朝活というものかもしれない。

  しかし、どんな朝を過ごしたところで帰りには忘れている。自律神経は落ち着いているだろうが、体感としてはよく分からない。朝はゆっくりできても昼にバタバタしてしまったら自律神経は乱れるから同じといえば同じだ。

  朝は不思議だ。何もなくとも希望が湧いてくるからだ。  何でも出来る気がする。何をしても大丈夫な気がする。一日を通してそういう気分でいられたらいいのに。

  私は何にでも持続性を求めてしまう癖があるのだけど、世の中そんなに上手く行かない。気分転換したつもりで辛い気分から繰り返し目を逸らし続けるしかない。

  せめて、目を逸らした先を好きなものでいっぱいにしておくのが大人というものだろうか。